★コンテンツ
・魔界村フォントの画面からの拾い出しとひろしからの依頼理由
・カプコンからタイトーへ、魔界村購入のきっかけ か?!(笑)
・続々と拾っていったフォントたち 究極はEXED EXESフォント か!?
・金沢の有名人 諸星月光V3からの依頼品 マーブルマッドネスのタイトルロゴとか
・ニンジャウォーリアーズ 字幕フォントのドットおこし
丹波寛斎(以下 寛斎):行くならみんなで~♪
怪獣:ひでごんす(以下ゴンス):ロヂャース~♪
寛斎:えぇ~、魔界村のフォントを画面から拾ってくれってひろしから頼まれたのは鮮明に覚えてますね。
ひろし:これは私覚えてます。 確か、当時タイトーで魔界村のロケテストに神田?かどこかのゲーセンに調査に出かけた私は、その面白さ、難しさにドップリとハマってしまい、ほとんど人気のないゲーセンで独占状態でやりまくってました。
で、確か60回以上(!)コンティニューしても3面がクリア出来ず、あまりに遅い時間になったので泣く泣く諦めたエピソードがあったんです。
当時はロテケストの告知なぞ無く、むしろ、コッソリやってインカムを見るのがテストの定義でしたから、今のような事前告知をやって、整理券配って1人1回だけ…
みたいな制限など何もなかった。 なので待ってる人が居なければ、やり放題の世界だったんです。 そこに一人で6,000円以上も突っ込んだから、当時のインカムに貢献したのは私ですと自負してます f^_^;
ゴンス:時系列的にはひろしが言ってるロケテストの後で、別の場所だったんじゃないかと思うんだけど、タイトーが魔界村の基板を買うかどうかを決めるテストロケを巣鴨のイブだったと思うんだけど、やるってのを聞きつけ、
魔界村をクリアしに行く!(極める)と勇んで出て行った気がします。インカムめちゃくちゃあげて、タイトーに「導入」させたのはよく覚えてます。「頼む、1000円崩して来てくれ」の応酬で、ほぼ終電までやってた記憶。
ひろし:他社のロケテ見に仕事で3人で出かけることが許可されるとは思えんので、恐らく休日に行ったんだと思うねw
まぁそんなこんなで魔界村の面白さに取り憑かれた私があのおどろおどろしいフォントにも衝撃を受け、ドットおこしを寛斎に依頼したのがその経緯かと。
寛斎:やっぱそうでしたよね、ひろしからの依頼でフォント拾い。魔界村フォントをコンプリートするころには、画面からのフォント拾いは簡単になってましたね。慣れです。当時はモニターがにじむから、にじみ具合から正解のドットを想像して拾ってました。
特別なフォント、その究極がCAPCOMのEXED EXESのひらがなで、これを画面から拾って以降はフォントならなんでも拾ってやるぜ!なんて思ってましたね。
たぶん現代のモニターなら、カクカクしてて簡単にドットが読み取れるんですが、当時のCRT(ブラウン管)はにじんでて、ドットの角が丸まってたんですよね。
寛斎:で、Tampa解散後ですが、金沢の有名人!マイコンベーシックマガジンのスーパーソフトマガジンのハイスコア集計でもビッグキャロット金沢店でDECOのサンダーストームとかで名を馳せた「諸星月光V3」から、こんなものが送り付けられてきて…
ゴンス:月光!(笑) これ、マーブルマッドネスのデモ画面でチカチカしてたタイトルロゴじゃん。
寛斎:「先生、これをどうしてもお願いします」と。(笑) もうなんでも拾えるぜ!なんて思ってるから、写真が不鮮明だけど「はいはい」と二つ返事で無償作業(笑) タイトーでのバイト以外で、ドット絵でお金もらったことなんてなかったですけど(笑)
寛斎:おまけで、当時月光がハマってたピーターパックラットのロゴも、確かマイコンベーシックマガジンの付録 スーパーソフトマガジンに載ってた画面写真から拾ってあげて、「一緒に拾っといたから」なんて(笑)
■ピーターパックラット タイトルロゴ
ゴンス:流石に俺たちが見込んで引き込んだ「変人」!「俺に拾えないドットは無い!」みたいな?!(笑)
寛斎:そんな感じでしたね。まぁ模写してるだけで、全くクリエイティブじゃないんで、自慢にも何にもなんない特技でしたけどね(爆)
また、あるサークルの依頼で、ATARIフォントの数字がアニメーションで他の数字になるというフォントを考えて提供したりもしました。
探してるんですが、そのアニメーションフォントの原画はまだ見つからないんですが…
ゴンス:解散後も他のサークルの人たちと高岡で何かやってたんだ(笑)
寛斎:その辺りも当時逐一報告してたような気もしますが… で、つい先日ネットを見てたら、その依頼サークルの代表の水上さんは中学生にしてスゴい自作ゲームプログラムを作って、ベーマガ創刊号に掲載されたという伝説の人でした。
私はその方面に疎く、当時はそれを全く知りませんでした。後にナムコにも在籍されてたというのも、ネット記事で初めて知りましたよ。Sサンの後輩になるんですかね。ドット拾いの弟子である はんちゃん小僧の先輩になるのかな!?
はんちゃん、見てたら連絡ください(笑)
私の周りにはゲーム界のスゴい人たちがたくさんいたんですねぇ… 私と原始人はタダのリーマンになりましたが。(;´д`)
ゴンス:月光は何してんだろうね?
寛斎:連絡取ってないし、わかんないですね。水上さんのブログには登場してたようですが… 自宅電話番号はメモが残ってますが(笑)
ビタミンAM創刊号の「会の沿革」から大分脱線してますが、ビタミンAM最終の10号執筆が1984年2月頃のはずで、そこまでに発売されて誌面に掲載されたゲームについては、
ビタミンAMの記事紹介にあわせて順次エピソードやグッズ紹介の予定なんですが、解散以降に出たゲームや解散以降の活動については、振り返りの「軸」となる会誌もなく、登場する機会が無いんです。
なので時系列的にねじれてきますが、1984年3月の解散以降の話は、関連事項が出てくる都度、一緒に紹介してしまいます。今回は文字数が多いですが、ひろしとのドット、フォント談義をある程度書きたいと思います。
寛斎:ひろしの「ニンジャウォリアーズ」のゲーム内説明文のフォントは、映画の字幕のフォントだって言ってましたよね。これを紙に書いたヤツをもらって保管してたように記憶してたんで必死に探したんですが、記憶違いだったみたいで見つかりませんでした。
ひろし:あのゲームを開発してる時に、映画的な演出にしたくて、字幕のフォントを作ろう、と思ったのは私でした。
元々ドットおこしが趣味だった私は、他のデザイナーさんがめちゃくちゃ忙しそうだった事もあり、自分でドット描いたのですが、その手法ははっきり覚えてます。
5~6本の洋画ビデオを借りてきて、それを頭から全部鑑賞。必要な文字が出てくるまでひたすら画面を凝視して、見つけたらポーズをかけてドットおこしを繰り返して描いたんです。
ひらがなは割と容易に見つかるんですが、漢字が至難の業 f^_^; 見つかるまで丸1日費やした事も… また、ひらがなはひらがなで、作品により「う」の字が違うものがあったりして、何種類も書き起こした後、どちらにしようか検討してました。
多分3日くらいかけて作ったと思います。
寛斎:漢字がなかなか見つからないのはわかるような気がしますね。あれはホントにココで紹介したかった力作でしたよね。通常の7ドットではなく、15×15ドットだったはずで…
ゴンス:あんた達のフォント話、ホントに終わんないね(爆)
ひろし:ゴンスのオヤジギャグで落ちたところで、また来週w
寛斎:次回はゴンス渾身のコーナー(笑)「新製品を斬る!」です。
コメント
コメント一覧 (14)
メーカー近郊の地方ロケでロケテストされたら、目撃証言などは殆ど残りませんから、こういう情報もTampaの存在の凄さでしょうね。
魔界村は子供時代の出会いでしたが、とにかくグラフィックが怖いの一言!
あれ程おどろおどろしい世界観をリアルに描写したゲームは当時なかったと思います。
この町は何故人が居ないのだろう、住んでいた人はどうなったのだろう、とか考えていました。
影の伝説が音源が強化されたことにより、その世界が深く奥行きがあると感じさせたように、魔界村もまた音楽が作品に命を吹き込んだように思います。
当時は上手く言語化できませんでしたが、デザイナーや作曲者が優秀であれば、あの時代のハードウェアでも、これ程の表現が出来ると感じさせてくれた存在でした。
(フォントの1文字を取ってもこだわりが出ていましたね!)
ちょっと後にナムコのスプラッターハウスが出てきますけど、決してディスるわけでなく、もうその頃にはそれ程の怖さや衝撃はなく、やはりあの時代の魔界村の恐怖は到底超えられませんでした。
勿論自分としてはスプラッターハウスも好きなんですが、怖さの方向性が違うというか、それは高難度にも起因したものであったかもしれませんが・・・・・・。
水上さんは当方も面識があり、何度かイベント等でお会いしたことがあります。
スプラッターハウスのデザイナーの方が毎年namco忘年会を開いているのですが、昨年始めてお呼ばれして、そこで久しぶりに水上さんとお話しました。
みなさん何かしらで繋がっているのが業界の狭さですね。
丹波寛斎
が
しました
あの時代にロケテストの情報を記録した書物なんてビタミンAMしかありませんから。
ゲーム内容的には新日本企画のマービンメイズ(アクウ)っぽい感じなのでしょうか?(・_・;
パンチングキッドのキャラ流用も大いにありそうですね。
というかタイトル名を知った時に想起したのがパンチングキッドでしたから。同じ企画者の作品なのかもしれませんね。
寛斎さんがゲーム同人誌の発祥に関われたのは、偶然でもラッキーでもなく必然であったと思います。
この画面からドットを拾う優れた技術を見れば、寛斎さんも立派な変人、もとい技術者であり職人ですよ!
それが故、そこに合流するのは自然な流れであって、ビタミンAMの原稿が今まで手元に残されていたことまで全てが“約束されていたこと”であったと思うのです。
丹波寛斎
が
しました
70年代後期からレーザービジョンやCDビデオと呼ばれた技術が登場し、国内では1983年3月16日~17日開催の第2回NAOショーでセガがLDを使用したアストロンベルト(83年5月発売)の試作機を発表したのが最初のようです。
同ショーではデコもVHDを使用した占いゲーム機、幻魔タロットを出展しました。
また米国では1983年3月25日~27日開催の第4回AOEショーにシネマトロニクスがドラゴンズレア(83年7月発売)を発表したのが最初の模様。
Wikiのレーザーディスクゲーム(LaserDisc games)という項目の英語版を見ると、1982年1月にローラーコスター(邦題:ジェット・ローラー・コースター)という1977年の映画のジェットコースターの映像部分を抜き出し(?)、アップルⅡで光映像信号を制御したものが発表されていたようなんで、シランケンもそうした技術作品の流れの一つだったのではないでしょうか。(・_・;
今回改めて時系列を追ってみて興味深かったのは、LDゲームが日米でほぼ同時に開発されていたことがより理解できて収穫でした。
Wikiに「アストロンベルトの発表は1982年に行われている」とあるのは誤りで、第2回NAOショーの前日(3月15日)に記者発表をしたようです。
丹波寛斎
が
しました
オリエンタル興業(上野天元社長)と云えば富山最古のアミューズメント業者!
上野さん一族を探し、当時を知る人が居られれば、或いはお話を聞けるかもしれません。(・_・;
丹波寛斎
が
しました
当時、オリエンタル興業は名古屋の東洋電気製:イーグルクレーンを改造して独自にオリエンタルクレーンを製造していました。
これがもう殆どスキルディガと同型なのですが、前述のイーグルクレーンもタイトーのクラウン602も、イタリアのジャガークレーンを元に製造したようです。(・_・;
さとみはサミースタークレーンを作ってやっていましたが、もう殆ど機構は同じですから、オリエンタル興業やさとみがスキルディガの生産を請け負っていたという可能性はありそうです。
前述のようにオリエンタル興業はゲーム機の製造も手掛けていましたから、新しい技術を取り入れて、世界に先駆けてLDゲームを作った可能性は十分にあると思いますよ。まだ世がポンの時代に関西精機製作所がビクターと共同開発したカラービデオゲームのプレイトロン(1973年9月)がショー発表、試作止まり、ということもありましたからね。
会社は現存とのことで、いつの日か寛斎さんと一緒に訪問したいですね。
丹波寛斎
が
しました
元金沢キャロットの常連だった諸星月光V3です。
(この名前使うのは何十年ぶりだろう...)
ひでごんすさん、赤い跳ねダルマさん(=寛斎さん?)、Sさん達はどうしてるのかなぁと
facebookやTwitterを調べてみて、ここにたどりつきました。
いや懐かしい!!
貴重すぎる資料だ。。。と見ていたら
まさか当時の自分の名前まで載せていただいていて二度びっくりです!
無茶なドットおこしの節は、大変お世話になりました(笑)
すごい技術に改めて感服した次第です。
水上さんは金沢で私の中学生時代からの私の「マイコン」の先生です。
まさに「人徳」のお方!
ナムコ時代に岩谷さんの元でFC版 源平討魔伝などを開発されていたと思います。
直近では確か7,8年前?に
「コミケで売るものがない。何か用意してくれないか?」と言われて
1985年頃?に我々が金沢で発行していた同人誌「C-GAP」増刊「ザ・人徳」
が手元に残っていたので、スキャンして電子版にしてCDに焼いて
コミケで一緒に売り子をした記憶があります。
この本は当時ゴンスさんから「ゲー●フリークからクレームが入ってる」とも聞きましたがw
ちなみに、ぜくうさんの同人誌も6冊ほど買っています。
あまりに密度が高すぎて読みきれていませんが、
とにかく内容が本当に凄まじいの一言ですね。素晴らしいです。
続刊を楽しみにしています。
とにかくこのページの存在にびっくりしたので取り急ぎ。
いつか同窓会?なんかも開けるといいですね!
ページの再開をお待ちしております!!
月光!(笑)
丹波寛斎
が
しました