★コンテンツ
・高岡市永楽町に存在した「ゲームズ カリフォルニア」と経営母体の「オリエント海渡」
・沿革と店内の様子
・Tampa参加以前の寛斎が訪問した「フォル」
・隣にあった「無線パーツ 高岡店」1978年7月開店、2013年12月31日閉店
・発起人とオリエント矢田兄さん、S(兄)さんとの出会い
・更に隣りの「タンディ ラジオシャック」とBCLブーム
・高岡駅方面からは手前にあった「銘菓 歌まくら の永楽堂」2013年8月はまだやっていたが同年廃業
丹波寛斎(以下 寛斎):さて、発起人の根城であり、Tampa発足のきっかけとなった「ゲームズ カリフォルニア」(以下 フォル)の登場です。
怪獣:ひでごんす(以下ゴンス):ココがなかったら、あんたとの35年来のつきあいも多分無いし、今の俺も無い。俺にとってはすべての始まりみたいなスペースだね。
寛斎:いやぁ、ありがたいことです。何から話しますか… まずは経営母体の「オリエント海渡」ですかね。
ゴンス:社長は海老江さんという方でした。そして矢田さんご兄弟、メンテナンス担当の愛称くまさん。事務員はいたかなぁ…
矢田さんのお兄さんとは、まず隣の無線パーツ高岡店(以下パーツ)で仲良くなりました。
寛斎:海老江ひろし社長が非常にエネルギッシュなミドルエイジだったという印象が強く残ってます。矢田(兄)さんはいろいろアドバイスしてくれたり、AMライフの取材で車を出してくれたり。
くまさんはちょっと怖かったけど、仲良くなったら、やさしくしてくれましたね。
ゴンス:後々会誌上にも出てくるので、オリエントさんの面々ご紹介はこんなところか。
寛斎:1981年の住宅地図には既に掲載されてますが、いつからあったんですかね? ひろしのリレーブログでは、パーツと同時に出来たと書いてありました。パーツの沿革を見ると1978年7月開店になってます。そして2013年12月31日をもってパーツは閉店となりました。
今回、再度図書館で住宅地図を確認してきました。1978年版ではパーツやフォルの建物を管理している「伊勢住宅の倉庫」と掲載。ココの伊勢くんは、私の中学の同級生です。
■ 画像 住宅地図での フォル変遷 1978年
1979年版にはフォル部分が空き家、他店舗のタンディラジオシャックとパーツが既に掲載されてます。
■ 画像 住宅地図での フォル変遷 1979年
ということで、パーツはHPの情報通りインベーダー発売直前の1978年7月開店、
フォルは1980年版から掲載されてますので、1980年版の調査が行われたと推測される1979年後半から1980年前半にかけてオープンとして話をすすめましょう。
■ 画像 住宅地図での フォル変遷 1980年
ビタA2号からの企画「ゲームセンターまっぷ」風に見取り図を描くと、こんな感じでしたかねぇ… 資料も何もなく、私が「フォル」にあったと記憶しているものを書いてますので、記載している台が時系列的に滅茶苦茶なのはご勘弁ください。
そうそう、今回マイクロソフトのEXCELでまっぷを作ってみましたが、楽チンでしたよ。「テキストボックス」でテーブルを書いて、配置変更もフリーだし。当時はだいたいで「あたり」をつけて、紙に一発で描いてたようなもんでしたよね?
■ 画像 「ゲームズ カリフォルニア」 見取り図
ゴンス:コピー用箋に手書きだったからね。まぁ、今は何するにも楽になったよなぁ。
設置機種だけど、俺がフォルに最初に行ったとき、置いてあったインベーダーはニチブツのムーンベース、ギャラクシアンの代わりにムーンエイリアンが設置されていた。メーカーとかコピーとか知らなかった当初は、俺にとってはインベーダーはムーンベース、ギャラクシアンはムーンエイリアンだった。
後から見たギャラクシアンの方がコピーだと思ってた。わかるかなぁ、わっかんねぇだろうなぁ。(笑)
寛斎:コピーとか、許諾商品とか最初は情報も無くてわかんなかったんですから、そんなもんだったんでしょうねぇ。ギャラクシアンのコピー基板は、「砲台から発射した弾が、砲台の動きに合わせて左右に動くヤツ」とか「赤い護衛のエイリアンが、あるタイミングで横1列全て編隊を組んだ状態で攻撃してくるヤツ」とかいろいろありましたね。
ゴンス:タイトーがスペースインベーダーのコピーを問題として訴えるまでは、類似ゲームの世界は「フリーダム」だった(笑) だからどれがホンモノか、よほどのマニアでなければ気にしていなかった可能性もある。
コピー基板は自機の動きが悪かったり、名古屋撃ちが出来なかったり、やはりオリジナルとは異なるところがあったりして、なんとなく「これはやらない」とか選別はしてたな。
寛斎:その辺りは漆原さんと渋谷洋一のバイナリアナリシスでも取り上げてなかったですかねぇ… セガ・スペースアタックは名古屋撃ちが出来ない。「ぶたまん」という愛称をつけ、プレイはしなかった みたいな内容で。「ぶたまん」が爆笑でした(笑)
ゴンス:はいはい。名古屋撃ちできないヤツね(笑) 「ぶたまん」(笑) ムーンエイリアンなんか、エイリアンが攻撃態勢にに入ると、裏返ったみたいに単色になる。これがホンモノと思ってた(笑)
寛斎:私は以前も書きましたが、TVで金沢の「テスター」というオペレーターの静止画CMを見て、そのバックで流れるギャラクシアンのオープニング曲、エイリアンが攻撃してるときの音がTVから流れてくるのに衝撃を受けたのと、友達の弟が買ってたコロコロコミックに掲載の「ゲームセンターあらし」でギャラクシアンを知りました。
最初にやったのは、高岡駅ステーションデパート3階の日高商会「高岡ドリームランド」(愛称:ヒダカ、ステーション、更に略して「ション」)に母親と妹で行ってギャラクシアンをやったのが最初のゲーセンでのゲームプレイでした。
だから逆に「フォル」で初めてムーンエイリアンを見たときに、「なんだ、この裏返るインチキ臭いギャラクシアンは!」と思いましたもん(笑)
ゴンス:オリジナルかコピーか、製品知識が無かったTampa発足以前は、先に見たほうをホンモノだと思ってたわな。(笑)
この入って右の壁際のゲームは、俺達のために設置してくれてたとしか思えないDECOのインベーダーとギャラクシアンで10円になってた。で、ギャラクシアンは天板の開閉に電源のオンオフが連動してて、天板に施錠してない。
だから開けて、ディップスイッチでフリープレイにして腰が抜けるほどプレイして、またディップスイッチを戻すというのでギャラクシアンをタダでやってたな(笑)
寛斎:それをやってるの、見てましたよ(笑) 10円すら払わないけど、フォルのみなさんも「ギャラクシアンぐらいいいか」とフリープレイさせてくれてたんでしょうね。(笑)
ゴンス:俺のフリーギャラクシアンは、フォルのみなさんが知ってたかどうかは謎なんだけど…
寛斎:ハハハ(苦笑) 50円のカップコーヒーも良く飲みましたね。100円持ってって、50円コーヒー飲みながら10円ゲーム5回。100円で有効に楽しめました。
あとは、欧米のお姉さんのピンナップとかが貼ってあって、ちょっと大人の空間でしたね(笑)
ゴンス:オリエント海渡直営のもうひとつのゲーセン「ビッグゲームズ テキサス」(以下 テキサス)もそうだったけど、店内が薄暗くてね。
寛斎:「テキサス」にもハーネス作ったりする作業スペースはあったはずなんだけど、基本、「フォル」の作業室で組んでたような印象です。そして組みあがったゲームは、「テキサス」や契約してる喫茶店に持っていく前に「フォル」に設置して様子を見てたような…
ゴンス:確かそうだったはず。
寛斎:矢田Jr.(弟)さんの喫茶店へのゲーム入れ換えに同行したこともあります。ルート5と私が付いてったのかなぁ… どちらも非力でテーブルを持ち上げるのに何の手助けにもなってなかったような記憶がうっすらと…
確か1階が駐車場になってる2階にある喫茶店だったような…
当時、フォルそばの千保川堤防上を爆走して配達。今は道路が水平になってますが、丸栄プリントという染物業者の工場が川岸にあった時代、徒歩で千保川を渡る細い橋が堤防の上にかかっていて、その橋が道路の水平部から1mぐらい高いところに架かってた。
その橋の高さに道路を合せるため、橋のところだけ道路が山のように盛り上がってた。ここをゲームのテーブルを積んだライトバンで爆走すると、ジャンピングスポットよろしく、ライトバンが飛ぶという(爆)
■ 画像 住宅地図での ジャンプ橋と現在のジャンプ橋
車の通行量が多い橋西側の道路は削られて平坦に、あまり車が通らない橋東側は
当時のまま橋前後の道路の起伏が残されている。橋は通行禁止となっている。
ゴンス:そんなところ、あったな(笑) 今日のところ、フォルで思い出すのはこの辺までか… また急に思い出したら、フォルコラム2回目行っとこう(笑)
寛斎:了解です。私が初めてフォルに行ったのは1980年だと思います。クラスで「カリフォルニアにあるクラッシュローラーは、2人目側の発射ボタンを押すとクレジットが入ってタダでできる」という話から、
数名で来店。ボタンを押してタダゲーして、何回かやって補導員が来ないうちに退散。「また明日も行こうぜ」と解散して、翌日来たら発射ボタンを押してもクレジットが入らない(笑)
中学生が何回もやってたのに、コインボックスに100円玉がほとんど入ってないんだから、くまさんも気付きますよね(笑)
ゴンス:それは俺達が気付かないうちに直されたな(爆) そうそう、補導員で思い出したけど、フォルの面々と仲良くなってからは、補導員が来たら事務所とかにかくまってもらってたよ。だから中学生ながら、フォル入り浸りでね。
寛斎:私は、補導されると職員室で正座とかになるから、高校生になるまではほとんどゲームセンターには行かないで、駄菓子屋の店頭に設置されたゲームをしてました。中3の1981年の話で、パックマン、クレイジークライマー、ムーンクレスタ等をやってましたね。既にインベーダーとギャラクシアンはなくなってました。
ユニバーサルのギャラクシーウォーズ(正規品かコピーかまではわからなかった)もあって、みんな「ゲームセンターあらし」に載ってた「Good!」とかのメッセージを出せたか?とか競ってましたね。
ゴンス:逆に俺達3人はゲームがあればどこへでも行ってた感じ。ゲーセン、駄菓子屋、二上山の頂上のドライブインにも行ったな(笑)
寛斎:Tampa結成前から自転車行脚ですね?(笑) ひろしの高校が自宅から11kmぐらい、ゴンスで5kmぐらいですか? ルート5と私は同じ高校ですが、ウチで9km、ルート5宅からだと10kmぐらい。全員自転車通学ですから、市内中心部のゲーセン程度なら学校より近かったですよね(笑)
ゴンス:それで日々鍛えられてるから、金沢への往復100kmの自転車行脚を何度もしてたんだよね。電車で往復すると、1500円ぐらい、ゲーム15回分が当時としてはデカい。あとは最終目的地である金沢・香林坊 ビッグキャロット金沢店までの道中のゲーセン、ドライブイン、パチンコ店併設のゲームコーナーとかもチェックしながら行ってたんだよね。
寛斎:「第1チェックポイント」とか言って、ちょっと休憩して中にあるゲームのチェックをしました。缶ジュースは100円損失になるから飲まずに(爆) 自転車で5回ぐらい行ってますね。それらの詳細はまた、ビタミンAM第2号以降に掲載の「ゲームセンターまっぷ」の時に話しましょう(笑)
さて、私もフォルの記憶はこれぐらい、次にその前から開業していたパーツとタンディラジオシャックについて少し触れときましょうか。
ゴンス:パーツはフォル以前に入り浸ってました。たしか新聞のチラシだかで無線パーツってのがオープンする、マイコンショップができる、って。
で、オープンセールをやってて、タンディラジオシャックブランドのカセットテープが安くセールされてた記憶。1本10円とか100円とかで投げ売りしてたような。喜んであほみたいに買った。そんなかにC-5、C-10ってえらい短い時間のテープを見つけて、のちにマイコン用のプログラム保存用だと知るわけですな。
けど結局、カセットテープはあんまり品質が良くなくて、日本製に限るな、ってTDK派になったんだけど。確かひろしがマクセル派、TACO-Xはaxia派だった。
寛斎:私もなんとなくTDKでしたね。昭和40年男でも取り上げられてますが、メタルテープの金属フレーム 「MA-R」にはレンタルレコードで借りた坂本龍一教授のソロアルバム「千のナイフ」を録音しました。TACO-Xは確か斉藤由貴が好きだったんじゃなかったかなぁ… だから彼女がCMに出てたaxia派なのかと。axiaはFUJIフィルムのブランドでしたね。
それ以前のFUJIはYMOをCMキャラクターに採用。カセットについてる応募券でもらえるグッズが欲しくて仕方ありませんでしたが、中学生はカセットテープを買うにも予算がなく、何一つ応募できませんでした。細々と買ってたテープもTDKでしたし。
更に「YMOブツクカセット」というのが当たる企画もあり、応募ハガキはもらったけど、応募できないという。これはルート5が当てて持ってたのを適価で譲り受け、今でも保管しています。
で、話を戻して、最初からアーケードゲームではなく、やはりマイコンから入ったクチですか? 私は前述の通り、グラフィックとサウンドからアーケードゲームに入ってますから、その2大要素をスペック的に再現出来ない当時のマイコンには全く興味ナシでした。
ゴンス:パーツで俺はマイコンと出会った。考えてみると、この頃はひろしとルート5とつながりがあったかどうか、記憶が定かじゃないんだよなぁ…
最初はパーツにタンディTRS-80とNEC TK-80とパナソニックのL-KIT16ってのが置いてあった。TRS-80はテキスト版のスタートレック、誰かが個人的に作るったのか、明日の降水確率を元に豆腐何丁作るか? みたいなのを予想するイスカンダルの豆腐屋さんというテキストのゲームが動いてた。
TK-80ではキャラクタータイプのインベーダーが動いてたような気がするなぁ。
寛斎:3機種とも生まれて初めて聞く名前です。(爆) NECのPCなんとかじゃない機種名や、パナがMSX以前にマイコンを作ってたとか 興味なかったから全く知らないです。(笑)
ゴンス:とにかく家から自転車で2分ぐらいだったから(笑) このときから結構、パーツに出入りしてタダゲーしてた。この時点ではまだSさんとは知り合ってなかったかなぁ…
ほどなく、NEC PC-8001やら、シャープ MZ-80Kやら、マイコンブームを牽引する機種がデモ機としてパーツに投入されました。で、パソコン雑誌に掲載されているゲームのリストを入力して、タダゲーしまくりでした。
学校をサボって(自転車を伊勢住宅の裏停め作戦)、パーツでひたすらデータを打ち込む。(爆) 当然、打ち込みミスもあるから、途中で止まる。止まったら、1からデータチェックを延々繰り返し。ベーシックで作られたようなプログラムなら、どこで止まるかとかチェックできたけど、機械語って呼ばれる言語(16進数2桁の組み合わせの羅列)だから、なにがなんだかわからんという(爆)
寛斎:マシン語、ダンプリストとかいうヤツですかね。
ゴンス:当時はマイコンでアーケードゲームを個人的に移植(真似て作った)したプログラムが流通。月刊I/Oに芸夢狂人って方の投稿が掲載されるが、神がかってましたね。今でも遊びたいと思う。
マイコンで遊ぶゲームを、フォルでも(アーケードのホンモノ)… というケースも多かったな。
寛斎:アーケード発売、即セルフ移植という気合の入ったプログラマーさんがいたんですね。まぁ私の場合とにかくビジュアルとサウンド的に…(後略)
ゴンス:ちょうど、オリエント海渡(フォル)で基盤の修理をするときに部品が破損すると、「パーツ」に調達に来る。隣で需給できる(笑) PCパーツショップの隣にゲーセン(修理もやってる)って、仲良くならないわけがない。
店員共々、常連客もお互い行ったり来たり。(笑) その頃にSさん(兄)も混じってたような記憶が… Sさんは矢田兄さんとも仲良かった、S Jr.(=原始人)は矢田弟さんと仲良かったな。
寛斎:ダイエーではなく、ここで知り合っていたということですね!
ゴンス:確かそうだったと思う。そういえば俺が(だけじゃないけど)しこしこ打った雑誌のゲームデータ(カセット)は、パーツの店長が「PC使わせるから、データくれ」なんて言って持ってってましたなぁ。当時は、いろんなPCデータの数々をカセットケース15巻入り とかに入れてたな。
オスカー(現カーマ)で買ったんだったか…
寛斎:DECOカセを持ち歩いてるみたいなもんですね(笑)
ゴンス:つうわけで、パーツでマイコンいじってる間は補導されないので、フォルと交互に行って、フォルで補導員接近情報あれば、パーツに!ってとこですかね。
というか、ゲーム基板工場のとなりにパーツ屋があるって、なんという偶然なんでしょうかね。コンデンサーとか、抵抗とか、トランジスター、コネクターとか、ゲーム基板に必要なものがすべてそろって1個から買えたからね。
海老江社長の先見の明(アキラ)[注:ルート5の名前から、せんけんのめい を私がわざと「アキラ」と読んでました]ですね。
寛斎:この辺りのマイコンショップ黎明期、デモ機でプログラム入力して遊び倒すというのは、全国どこでもあった風景のようですね。水上さんのインタビューにも書かれてましたからね。
ゴンス:結局、寝ても覚めてもゲーム、マイコンショップとゲーセンの往復に終始みたいな、ね。(笑)
寛斎:私はパーツは最初に行ったのがいつだったか、記憶が定かではないのです。家にあった親父のステレオのスピーカー、たぶん昭和30年代モノをラジカセにつなぐために、リード線とかLRラインの紅白のジャックとかを買っていたので、中2か中3、1980~81年には行ってました。
「無線パーツ」だからBCL関連グッズやBCLラジオが無いのかと思ってましたが、実は隣に「タンディラジオシャック」があったんですね。当時は全く気付いてなくて、先日の住宅地図で初めて知りました。タンディが何かについては、BCLの神様 山田耕嗣さんの文献で少しだけ知ってました。
店があるとわかっていたら、入ってみたかったです。
山田耕嗣さん情報の受け売りですが、当時のタンディのBCLラジオは、DX-200とDX-300というのがあって、DX-200はトリオ(後のKENWOOD)のR-300、DX-300はYAESUのFRG-7000によく似てるんです。海外のネット情報では、千葉にあったGREという会社でつくられていたようです。この会社、初めて聞きました。
■ 画像 DX-200とトリオ R-300(以下のラジオの画像はネットからのいただきものです)
■ 画像 DX-300と改良型DX-302とYAESU FRG-7000、FRG-7
私の最初の愛機(当時は「リグ」とか「RX]」とか言ってた)としてFRG-7000を親父にねだったのですが、単身赴任元の静岡市中心街の岩崎ラジオで「中学生ならこちらでしょ」とSONYのICF-6800を買ってきてくれました。
ICF-6700なら間違いなく文句を言ってましたが、6800なら仕方ない(贅沢な話ですが…汗)と、FRG-7000を諦めました。名機FRG-7ベースのデジタル直読機でしたが、プリセレクターのところの色使いが鮮やかで、子供なのでそこに強く魅かれましたね。
親父は自分もラジオを自作したりしてたので、このときばかりは「必要ない」とか言わずにアッサリと買ってくれました。
■ 画像 SONY ICF-6800と6700
ゴンス:会の名称を決めた話が後々の会誌に出てくるんだけど、Tampaは「短波」の語呂合わせで考えたんだよね。他に「GAME」という略称もあり、その中身が笑えるんだが、それはその記事のときのお楽しみということで(笑)
だから ひろし を除くメンバーはBCLラジオを持ってたよ。俺は大ヒット機ナショナルクーガ2200。ルート5は東芝のだったかなぁ…
■ 画像 ナショナルクーガ2200と東芝TRY-X RP-2000F
寛斎:Sさんには東芝のTRY-X RP-2000Fを見せてもらいました。ルート5も東芝なら、同じ縦型の2000か、廉価版の横型のか… ひろしと原始人は、なんか雰囲気的にBCLやってなさそうでしたね。
ゴンス:あんたとほとんどBCLの話をしなかったけど、Tampaと並行して短波もやってたんだ(笑) あんたが初期PCの型番がわからないのと同じで、俺もラジオを型番で言われてもピンとこない(笑)
■ 画像 ナショナルRF-B30
寛斎:クーガは持ってたけど、そこまでのめり込みませんでした?! ICF-6800に続き、高校入学祝いに祖母からナショナルRF-B30を、母からSONY レコーディングウォークマンを買ってもらいました。ゴンスの近所の肉屋の友達は、30万円ぐらいするコンポを買ってもらってたから、その価格差で親にウダウダ言ってましたが、サブのBCLラジオにウォークマンですから、
自分が親になって考えると贅沢なヤツでしたよね。ウォークマンは爆発的ヒット機ウォークマンⅡベースでステレオ録音機能をつけたもの。どうせ買ってもらうなら、録音もできないと… レベルでの選択でしたが、これのおかげで後にTampa参加時にゲーセンで好きなBGMを録音しまくれたんだから、
ホントにいい選択だったと思います。ちょうどソニーからのプレゼントで、ウォークマンとマイクやヘッドフォン、カセットテープが入るキャリングケースがついてて、それはフタにヘッドフォンやマイクのコードを通す穴まであいてる専用品。これを2プレイヤー側のイスに置いて、マイク端子には壊れた安物のヘッドフォンをバラしたヤツを筐体に両面テープで仮固定して録音しまくりでした。
ゴンス:ルート5はラジカセを持ち込んでたんだったかな?だから金沢とかの遠征には持って行けなかった。あんたのはポータブルだったから、金沢のシティバーガーでハッピーダイヤモンドの音も録れたってことですよ。
寛斎:いやぁ、テープがみつからない。ひゃーっ(同ゲームでプレイヤーがやられると、叫びながら奈落の底へ…)BCLはブーム末期で、日本BCL連盟の「短波」誌も1983年に休刊。短波誌に記事を書いてた奈良の山下さんて方がICF-6800にYAESUのフィルタを入れて「ナロー化」(混信対策)してて、私のもいつものオーディオラボで、短波誌の改造記事を見せて、ナロー化してもらいました。
そもそも日曜朝にニッポン放送でやってた「ロイジェームスの不二家歌謡ベストテン」を高岡で聞きたいところからBCLに入ったので、海外放送は早々に聞かなくなり、国内中波局受信&ベリカード制覇を目指してひたすらワッチ(受信)してました。
まぁ結局、ラジオ沖縄(遠すぎるのと同じ周波数に別の強力局があった)、熊本放送(隣県の北陸放送の中継局と同じ周波数)、和歌山放送(結構近い岐阜放送と同じ周波数で岐阜放送しか聞こえない)等で数局が聞けずにカード全制覇の伝説達成ならずでした(笑)
ゴンス:KNB北日本放送が終了すると、韓国 KBS大邱、中国 吉林人民公播電台の陰で、同じ738KHzの琉球放送が微かに聞こえたんだよね!
寛斎:そうそう、琉球放送はそれでベリカードをもらいました。あとは当時のソ連による大韓航空機撃墜事件で1251KHz 1500kWのモスクワ放送が停波したときに、これも微かに極東放送が聞こえて、津島要のベリカードをゲッツ(σ゜∀゜)σ
ゴンス:あんた、もうひとつの「たんぱ」も結構気合入れてたのね(笑)
寛斎:Tampaに参加した高校1年、1982年の夏休みは、若くして亡くなった親友の静岡の家に2,3週間転がり込み。そのときに愛機RF-B30もボストンバッグに無理やり詰めて持ってって、高岡では混信して聞けない茨城放送とかを聞いてきました。BCLブームはおそらく、国内中波局が10KHzから9KHzセパレーションになった1978年11月23日あたりが「ピーク」だったんじゃないかと
個人的に思いますね。「周波数が変わる」ことが一大イベントでしたし。KNBは740から738KHzに、SBSは1400(イチヨンマルマル)から1404KHzになり、まぁ全国ほぼすべての局がズレたんですよ。
ゴンス:当時あんたとはしなかったけど、そんな話もありましたなぁ。
寛斎:そんなわけでもうひとつの「たんぱ」の話もおしまいです。今お金があったら、コレクションとしてパナのRJX-4800とRJX-4800Dを並べて飾りたいですね。あと欲しいのは「カセットスカイセンサーCF-5950」多分使わないだろうけど。
そうそう、大学生の時に友人からRF-2200とICF-5900、ICF-2001を譲ってもらいました。高校生当時のリグと合わせて5台が押し入れで眠ってます。
■ 画像 パナのRJX-4800とRJX-4800D
■ 画像 SONY CF-5950、ICF-5900、ICF-2001
ゴンス:さて最後はタイトーに帰省土産で持ってった銘菓「歌まくら」の永楽堂でシメか(笑)
寛斎:今回1976年あたりの住宅地図では「天嘉堂」、その後「永楽堂」になってました。「コンテンツ」の通り、ネットで見ると2013年廃業。パーツの閉店後に見てたら、なんか永楽堂もやってねーぞ
みたいな感じで気付いたんですが。
ゴンス:「歌まくら」はTV、ラジオでCMもやってた。「ぎゅうひ」にきな粉をまぶした和菓子で、山梨の「桔梗信玄餅」の黒みつが無いヤツと言うと分かりやすいな。
寛斎:そんなんでしたね。ネット上では「また食べたい」と書いてる人がいます。
ゴンス:後継者がいなかったのか、まぁ時代の流れか…
寛斎:今回長くなりましたが、8月末にBCL、ハム関連のイベントもあるらしく一挙に(笑)
ゴンス:次回はルート5渾身の企画(こればっかり言ってますが)「会社紹介」! 第一回はナムコ編ということで、また来週!(笑)
コメント
コメント一覧 (7)
当時は最初に見た物がオリジナル、コピーという概念は無かった。というのは本当にそうで、“よほどのマニア”もまだ殆ど存在していなかったでしょうね。「コンピュータープログラムは著作物である」という判例が出る迄は、それこそ「遊びにパテントは無い」の世界。
セガのブタ殺し、ユニバーサルの床掃除、という感じですね!w
Tampaの為に設置してくれたとしか思えないというギャラクシアンはフォルのみなさんの粋な計らいですね~。
自分もちょっと違うんですけど、祖父母の住む仙台には春・夏・冬と遊びに行っていたのですが、エンドーチェーン台原店のゲームコーナー(恐らくタイトーロケ)を管理しているおばさんが凄い可愛がってくれて、良く天板を開けてタダでクレジットを入れて遊ばせてくれました。
あと、その頃はお金を持ってなくても椅子に座って、ガチャガチャして遊んだ気になったりしていて、同様に影の伝説でもやっていたら、何と!デモ画面の1面を動かせることに気付いて、しかもそのままクリアすると次のデモ画面(動かせない)でメインテーマが流れるって事に気付いて嬉しかったですねぇ。今、小倉さんと親交があったり、熱心なファミ通読者であった自分が寛斎さんやゴンスさんと、こうしてやり取り(?)出来ているというのも凄い不思議な感じです。
地元町田では小学生の時に補導員に捕まると隣の小学校名と偽名を使ってました。w
BCLと云えばITRさんとこの『あまちゅあらいん』も地元にあったアマチュア無線愛好会から派生した団体なんで、無線というのも、その頃は中高生にとって新しい文化の風、また『遊び』としても大きな存在としてあったという気がします。
Tampaの略称が何であったのかは有名ですが、実は『短波』の方にも掛かっていたという。ビタミンAMは抜け抜け所持なんで、このWeb Tampaの存在は本当に素晴らしいです。
丹波寛斎
がしました
先週、こちらのことを教えてもらい、伝説の一部に触れられることを嬉しく思いながら読み終えました(もっとくれ!)。
聞きたいことがあって電話したら番号が変わってて消息不明だったゴンスさんが元気そうでなによりです。
青山から初台に移転した94年、金曜の夜はゴンスさんが編集部に酔って戻って来ることが多く、「カ~リ!」「フォ~ル!」などと叫んでたり「キミはTampaを知っているか!?」と何度も絡まれたことを久しぶりに思い出しました。
あまり人がいないときだけでしたけど、そんな夜は明け方くらいまで富山時代やタイトー社員時代の話をしてもらったことも。
そのときの昔話の記憶と、こちらで書かれていることを繋ぎ合わせていくうちに、もしかしたらあのとき「解散10周年のTampa特集やりませんか?」って俺が言い出すのを期待してたのかなあ…と考えるようになり、なんで気づいてやれなかったんだ!と反省しきりの毎日ですが考えすぎですか?
そんなわけで更新を楽しみにしています。
丹波寛斎
がしました
初台と言えば、一緒にこっそり会社の電話でダイヤルQ2競馬予想を聞いて、
翌朝一緒に新宿のウインズで馬券買ったことです。忘れもしないエーブアゲイン。
予想会社スゲーと7万円持ってホクホクしてたのを覚えてます。
というわけで、競馬は予想会社。ゲーム情報はTampaにおまかせください。
次回更新をお楽しみに!
丹波寛斎
がしました
今後もゴンスと共に当時の記憶と記録、所蔵資料でビタミンAM作成当時のことを振り返って紹介していきますので、ご愛顧のほど、よろしくお願いします。
丹波寛斎
がしました
ゴンスさんに返事が貰えるなんてポコリンちょーうれぴー(もちろん丹波さんも)。
6年前に腸閉塞、心・腎・肝不全、肺炎を併発し死にましたが、まあ元気です。
エーブアゲインの件、俺も忘れられません。
「ここの予想、結構当たるらしいから乗らんか?」と誘われ1万買ったら30万になった。そのとき「さすが時代の寵児は違う」と言われたのが凄く嬉しかったので。
それと同年5月に言われた「この1年であんたより仕事した人は同世代にいないから自信持っていいよ」も、ある程度の評価をされているのでは?と嬉しかった。
ゴンスさんの真意はともかく、この二言を心の支えに今日まで生きてきました。ありがとうございます。
なかなか面と向かって伝える機会が無かったので、この場をお借りして伝えられたことに感謝します。
ちなみに第1号2-3で触れてた「新人類あきらちゃん」ですが、俺に話をしてくれた時もロケテどこだったか忘れたと言ってましたよ。
暇なので、またなんか書きます。
丹波寛斎
がしました
の関係は薄く、無いに等しい。
育った地域がド田舎なので近所にゲーセンなんてあるわけも無く、ビデオゲームというものは憧れの存在であり、ゲームセンターあらしを読んでは登場したゲームを粘土で再現して遊んでいました。
なのでたぶん、ドラキュラハンター(粘土版)は俺が世界一のプレイヤーなのではないかと思います。
あらしで実在のゲームを扱わなくなった頃、実在するゲームの移植に拘りを持っていた俺は、メーカーに電話をしてチラシ等を貰うことを思いつきます。
タダで貴重なチラシを貰うなんて無理だろうなと思ってましたが「地方からわざわざ」とか「キミはタンパみたいなことをしてるんだね」と言われ、意外とあっさり貰うことができました。
今にして思えば偉大な先人たちのおかげなのはわかりきったことなのですが、当時は特段Tampaに感謝することもなく、富山にそういうマニアの人たちがいるんだ~くらいの気持ちで粘土をこねてました。
そんな俺が色々あってファミコン通信に入り、ゴンスさんも担当したビデヲゲーム通信を引き継ぐのですから不思議な薄い縁を感じざるを得ません。
ビデ通を担当していると、ナムコが画面写真だけ送りつけてきて「取材不可でロケテもやってないけどよろしく」なんて事が普通に起こります。
そんなときチムコさんは「Tampaのおかげで貰えたチラシと粘土で遊びをクリエイトしていた経験」を活かし、想像で記事を書くことで幾度もピンチを乗りきりましたとさ。めでたしめでたし。
っていう昔話をゴンスさんに聞いてほしかったので書いてみました。おしまい。
丹波寛斎
がしました