★コンテンツ
・高岡市中川町に現存する「オリエンタル興業」
・幻のビデオゲーム「シランケン」とTampa発足前の発起人との出会い
・住宅地図で調べたオリエンタルビル以前とその後
・沿革と現在の店内の様子
・「エンマ帳」の「アニキ」
・「ORIENTAL」ロゴが画面表示されるボーリングゲーム
・類似ゲームというか、そのベースの可能性があるセガ スーパーボウル
・1978年セガカタログに掲載される「オリエンタル」表記のあるクレーンゲーム他
・そのカタログに掲載されているピンボールとTPO(東京・ピンボール・オーガニゼーション)
・そのカタログに掲載されているグランプリ4とAFXと戸出(といで)ハニー
・様々な設置機種 シェリフOEM(?)のタイトー ウエスタンガン2
■画像 ありし日のオリエンタル看板。旧国道8号線からよく見える、ランドマークでもあった。
丹波寛斎(以下 寛斎):さて、Tampa発足前の1982年4~5月に寛斎が発起人達を見かけたこともあるゲームコーナーを建物1階に擁する「レジャープランナー」(同社看板より)「オリエンタル興業」(以下 オリエンタル)の登場です。
怪獣:ひでごんす(以下ゴンス):俺達発起人は発足前の当時、ココであんたを確認した記憶は無いんだが(笑)
ぼんやりとした記憶なんだけど、そもそも発起人3人、いや、俺だけかもしれないんだけど、ここがゲーセンって知ったのは意外と遅かった気がするんだよな。
「ゲームマシン」の看板は「何か会社があるんだろう」と近づかなかった淡い記憶。
寛斎:いやいや、ロケテストしていたらしい幻のビデオゲーム「シランケン」をやっていたか、誰かがやっているのを見ていたか、そんな発起人達を目撃してたんですよ(笑)
「シランケン」ですが、ネットで検索しても何も出ませんし、ひろしやぜくうさんに聞いても「シランケンは知らんけん」という同一回答しか出てこないんですよね。(笑)
ゴンス:なぜオリエンタルでロケテストなのか、もわからないんだよな。
あんたの記憶からすると、あんたと交流がなかったころにシランケンをやってたってことは、俺の記憶が薄いだけだな。
寛斎:なにしろTampa参加以前なので、ロケテストなんてものがあることも知らなかったし、未発売のゲームがオリエンタルにだけ入荷しているなんて思いもつかなかったので、何の記録も残してない。あるのはかすかな記憶だけですわ。「シランケン」の話はまた後でじっくりしましょう。
さて、北陸の廃墟巡り等を動画サイトにあげてらっしゃる「チカモリ情報局」さんをマネして、今回も高岡市立図書館で、昔の住宅地図を調べてきました。
オリエンタルは社長が上野さんという方で、UENOビルという名称で2階が同社事務所、1階が1982年当時小、中、高校生でごった返していたゲームコーナー ドリームタウン。
ゴンス:Tampa発足当時、オリエント海渡の熊さんからいろいろ言われていて、オリエンタルは敷居が高くて、会としてコンタクトを取ってないんだよね。だから会社の沿革とか、すべてが謎なんだよな。
寛斎:検索してみても、ネット電話帳と以前の求人情報みたいなのしかHitしないので、電話番号と現社長のお名前ぐらいしかわからない。
ゴンス:好奇心旺盛で、あちこち立ち入り禁止のようなところでも入っていった俺達だが、当時UENOビルの2階には足を踏み入れてない気がするんだよね。
その後のネット画像を見ると、一時期は2階に学習塾がテナントで入っていたことを確認できたので、入ることは簡単だったんだろうな。入れ知恵や先入観って、影響でかいね。
寛斎:私は2階探索なんて、考えもしませんでしたよ(笑) オリエンタルに行ったら、設置してあるゲーム機に集中ですよ(笑) 自分がやるゲームに、他の子どもたちがやってるゲーム。もう2階なんて眼中にナシ(笑)
Tampaとして何か探索するなんて考えはなく、ひたすら1(イチ)プレイヤーになってましたね(爆)
だからゴンス達が卒業してタイトー就職してしまうと、私だけでのTampa存続が難しかったんだと思います。他にはスタッフもいなかったし。
当時市内のゲーセンで「Tampaの人ですか?」なんて、声かけられた事なんか無かったですよね?
ゴンス:そうだね。こちらとしても、目の前でゲームやってるプレイヤーをスタッフとしてスカウトしようなんて考えてもいなかったしね。
■画像 1979年の住宅地図
寛斎:で、そのUENOビルですが、1979年頃に建てられたようです。1980年の地図には載ってますが、それ以前は図書館にあった最古の住宅地図、昭和36年版からずっと、高岡ボーリングセンターというのが建っていたようです。いまならTBCと略すんでしょうが、当時は何と呼んでいたのか…
その南には高岡ゴルフセンター、東側には高岡スポーツセンター跡と書かれた地図もあり、この近辺が一大スポーツ施設だったようです。
高岡ゴルフセンター向いのゴルフ用品店は今でもあるようです。それら施設とオリエンタルの関わりも全くつかめていません。
昭和の間はその富山寄り、現在カーマ野村店があるあたりに、高岡スケートセンターもありました。何故この辺りにそういった施設が集中していたのか…
今回住宅地図を見るまで忘れていましたが、現在の高岡高校周辺に、昭和の間ぐらいまで、国立富山大学の工学部があり、それらの学生がスポーツ施設を多数利用していたのではないか、
彼らを客として施設が増設されたのではないか、と推察します。
ゴンス:富大、そういえばあったよな。オリエンタル近くの大通り「主要地方道 富山・高岡線」はもともと国道8号線だったから、集客能力はあったのかもね、スポーツ施設にも。
高岡スケートセンターも覚えてますよ。旧国道8号線だから、交通量も多かったんでしょう。スポーツ村だったのもそういうとこから来てるのかもしれないね。
富山市の富大本体には、共通一次試験を受けに行った。高校では進学コースにいたので、「就職?ざけんな、テストだけは受けろ」と富大へ。もちろん、帰りはACB(アシベ)。
寛斎:富大前、ACB(アシベ)(笑) 後の会誌で「ゲームセンターまっぷ」をやってますから、詳細はそのときに(笑) エースコックのカップ麺の自販機が1階にあって、カレールーの塊がそのまま入ったカレーヌードルとか焼きそばもあったかなぁ…
焼きそばはたぶん「バンバン」って名前のヤツかな、確か。ネットで見たらやっぱりそうですね。で、一番衝撃的で思わず買ってみたのが、「でかてん」ていう、てんぷら入りカップみそラーメン(笑)
なにゆえに味噌ラーメンに天ぷらを入れるのか?! という疑問(笑) これはACBで買って家に持ち帰り、家で食べました。フツーの味噌ラーメンになぜか海老天が乗ってるという(笑)
ゴンス:「でかてん」、あんたまたよくそんなもんまで覚えてるね(笑) で、その旧8号線は俺の高校の通学路でもあったんだけどな。
寛斎:そうですね。私は遠いから、あまり野村のタイトー直営店に行きませんでしたよ。行ったのは、1983年にDLL(ダイエーレジャーランド)で50万点以上出せるまで鍛えたテーカンのガズラーがタイトーで月間ベストスコア大会の対象になっていると聞いて、道場破りじゃないですが、その大会に100円1プレイだけ参加して月間トップになり、カップヌードルとカップヌードルチキン、各1カートンをもらいに行った時と、Tampa解散後にTX-1をやりに行ったぐらいですね。
そうだ、6号のゲームセンターまっぷがタイトーで、その取材が初めてのタイトー経験だったかも。確かゴンスが、コックピットのスペースクルーザーをやってくれて、1ループクリアするところを録音した記憶がある。動画サイトにupされてるスペースクルーザーのプレイ動画では、途中で装着される惑星破壊ミサイルとのドッキングを放棄するもんだから、最後の敵惑星を破壊出来ず、目的未達になってますよ。
■ 画像 スペースクルーザー カタログ
ゴンス:スペースクルーザーね。とりあえず1ループはクリア出来るところまではやったね。タイトー野村店はひろしも俺も、学校のセンセや友達に、あそこに就職すると思われてたってのは笑いますな。まさかインベーダーを作ってた大元の本社採用だとはだれも思わなかったというね。
タイトーはさすが直営店だけあって、タイトー製品の充実っぷりはエグかったね。広かったし。2階建てで全部ゲームだから。
トラックボールのボーリングゲーム「ストライクボウリング」とゴルフゲーム「バーディーキング」が並べて置いてあった。
■ 画像 タイトロニクスカタログ1982-11から「ストライクボウリング」「バーディーキング」
寛斎:それは両方とも、原始人がやってましたね。
ゴンス:金子製作所制作・タイトー販売の「ジャンプコースター」や「ボギー83」的なのも速攻、入ってました。ザイレックのザPITとかフィッターとかも早かった記憶。
最初に入った時にはスペースインベーダーパート2(カニインベーダーが分裂するやつ)がたくさん並んでました。このころは中学生だったはずで、一番補導されやすい時でもあったけど「遠征」してた(爆)
■ 画像 フィッター カタログ
寛斎:ゴンスは高校下校時に必ず寄るみたいな感じだったんでしょ(笑)
ゴンス:そこはそれ、俺があまり江尻のジャスコに行かなかったのと同じだろう。あんたの通学路だから、江尻ジャスコのオリエンタルのゲームコーナーには行ってたんでしょ?
寛斎:話が「俺とタイトー野村店」レベルに脱線しましたが、またオリエンタルに戻して(笑)
ジャスコが出来てからはとりあえず、下校時の第1チェックポイントとして、ほぼ毎日寄ってたと思いますよ(笑)
となると、オリエンタルはゴンスの第2チェックポイントですかね。
ゴンス:まぁ、そんなところだわな(笑) 高校時代、高岡に最初のファストフード、モスバーガーがオリエンタルそばにできた。記憶だけど、次に金沢のケンタッキーを知る。
それまではダイエーのドムドム、どっかのスーパーに入ってたグリコア。マックは上京後じゃなかったか…
寛斎:私の記憶はちょっと違ってて、1979年に静岡から高岡に来た時にまず、マックが無い事に衝撃を受けました。静岡の小学生時代、6年生のときだけだったように記憶してますが、新静岡センターにしかなかったマックに月1回だけ親父が連れてってくれました。
そこで、ビッグマック、マックフライポテト、マックシェイクを食べさせてもらうのが楽しみで(笑) 当時は高価だったので、親父はたぶん何も食べてませんでした。
で、高岡で最初に見たのが、今の御旅屋セリオ、大和高岡店が建て替わる前の旧店舗時代。大和の横で、今あるラーメン屋「めん八」とタカバ眼鏡の間の道の突き当りに、明治の「サンテ・オレ」というバーガーショップがありました。私の知る高岡最古のチェーン展開バーガーショップはそこです。
そうそう、ドムドムはマックやモスよりも早く、日本初のチェーン展開したバーガーショップだったはずですよ。
多分その次に、旧8号線のモスバーガー、江尻ジャスコ1階にあったグリコがやってた「グリコア」ですかね。Tampaの金沢行脚で、香林坊にマックを見つけて、高校3年のときに何度か、ギャラガの師匠だったヒロキくんと電車で金沢へ。香林坊マックで当時あった、今とは違うカタチのクォーターパウンダーを食べて、金沢のゲーセンでゲームするという、
マック・ゲーセンツアーをしました。なので、高校生の時はまだ富山市にマックはなく、先にケンタッキーが営業してましたね。高岡のマックとケンタは、社会人になって以降、1990年以降に出来たんだと思います。
原始人の根城「大仙」も「大仙バーガー」を独自に開店。このあたりも、住宅地図で調べれば、いつからあるかわかるんですが、これは割愛します。
ゴンス:金沢のハッピーダイヤモンドがあったゲーセンはハンバーガーショップだった記憶。名前が思い出せん。スターバーガーみたいな名前だった。
寛斎:それはシティーバーガーですね。ビタミンAM5号までのゲームセンターまっぷで出てくるので、詳細はそのときに。
話がまた脱線しましたが、またオリエンタルに戻しますよ(笑)
1979年建設から、2020年にも現存するオリエンタルのUENOビル、結構スゴいですよね。私が初めて訪れた時には、すでに屋上の名物看板は立ってました。
同じ町内に今も住んでて、ゴンスの「10点中9点伝説」のあのリブルラブルがスゴく巧かったタツヤは、私たちが教えるまであのゲーセンを「ゲームマシン」と呼んでましたよ。
■画像 オリエンタル興業 空撮
ゴンス:「ゲームマシン」は「取り扱い商品」であり、会社名ではありません(爆)
某マップの航空写真で初めてハッキリしたんだけど、あの看板は三角形だったんだな。で、2017年頃に撤去されてしまった。
寛斎:オリエンタルに現存する喫茶店のおばちゃんに「台風でヤバ気だから外したんですかね?」って聞いたら、そうではなくただ外しただけだ と言ってましたよ。
思い出の「レジャープランナー」看板の消失は、私たちにとっては寂しく、残念でしたね。
ゴンス:看板は下ろしたけど、会社は存続してるんでしょ?
寛斎:ジャスコからイオンに変わった江尻イオンで、2階から1階に移ったゲームコーナー等、まだまだロケーション展開もされてるようです。
ゴンス:高岡駅南のイオンタウンは増床してデカくなってるのに、まだイオンが江尻にもあるってのが謎だな。当時の俺たちなら、チャリで20分の距離かな?
寛斎:想像ですが、駅南イオンは北陸最大級と言われていて、岐阜からも来店しているようですよ。飛騨ナンバーの車が結構停まってますから。
遠そうですが、東海北陸道と能越道で高山から1時間ぐらいで来れるんじゃないですかね?!
江尻の方は24時間営業で、野村に沢山住んでそうな、夜間飲食店の従業員の方とかあの周辺の住宅街の人たちが利用してそうですね。
ゴンス:へぇ~、そうなんだ。で、オリエンタルは未だ現役で存続というのがスゴいよね。1階ゲームコーナーは帰省の度に一緒に覗きに行ってたけど、何か変化は?
ネットで見ると「ドリームタウン」の屋外看板もまだあるようだけど…
■画像 ドリームタウン看板
寛斎:コックピットタイプの筐体が置いてあり、その周囲に工具が置かれるようになったのが変化っちゃ変化ですかね。
ラバタイプというか、格闘ゲーム筐体が沢山置いてありますが、電源は入ってないです。今回のコラム執筆にあたり、年末と年明けに訪問してきました。
店内に入るとオリエンタルに現存する喫茶店のおばちゃんに「営業してないのよ。トイレも使えない」と言われてしまい、内部画像とかは撮れませんでしたわ。
で、こちらからだと話し難いのですが、おばちゃんから話しかけてきてたので、こちらも唐突に「高校生の頃、毎日入り浸ってたんです」と昔話を切り出してみました。
喫茶店でホットコーヒーを頼んで、昔は子供であふれかえっていたとか、いろいろ話ました。
ゴンス:おっちゃんとか、アニキは居た?
寛斎:喫茶店は当時の名称「きのこ」から「八十路」に変わっていて、おばちゃんは当時の方ではなく、ここ数年で私になったのだと言ってました。
色々昔話をして、Tampaのこと、会誌を作っていたこと、日本のゲームの歴史を研究している人がいて、オリエンタルを取材したいと言っている事等を話して、
「また来るので、オリエンタルの方に取材可否を確認しておいてください」とお願いして帰りました。
ゴンス:で、どうなった?
寛斎:年明けに再訪したんですが、そのときはお友達と思われる別のおばちゃんと話し込んでいて、「今、オリエンタルの人がいないので、またね」と早々に追い返されてしまいました。
また2月にでも覗いてみます。
おっちゃんとアニキですが、当時は喫茶「きのこ」にスーツを着たおっちゃんと、スーツでビシっと決めたアニキが詰めていて、コインが詰まったとか、クレジットが入らないとかの不具合対応をしてくれてました。
また、小学生から高校生までが安心してゲームに集中できた要因として、おそらくこの2人の存在が大きかったと思います。
当時高校生の私は、補導員は気にしていませんでしたが、小、中学生が補導されてるのを見た記憶がない。また、カツアゲしてる高校生も見た事がない。
ゴンス:アニキがビシっと決めてたからでしょ(笑)
寛斎:角刈りのアニキが、カツアゲ高校生や補導員をシャットアウトしてたのかもしれませんね。落語家の古今亭朝次とか、マンガ「なにわ金融道」の帝国金融の桑田っておっちゃんみたいなイメージ(笑)
ゴンス:どっちもよくわからんよ(爆) アニキとは意外な場所で会ったんだよね(笑)
寛斎:当時Tampaで借りていた高岡郵便局の私書箱へ、ゴンス含む発起人と私で郵便物の確認に行った時、これまた別のいで立ちでビシっと決めていて…
ゴンス:流石アニキです、みたいなカッコね。あぁ、はいはい、みたいな。熊さんが言ってたのはこういうことね、みたいなね。
寛斎:そんなアニキでしたが、私がディグダグ豆本にハイスコアを記入してたら、ニコニコしながら「おっ!エンマ帳か」なんて気さくに話しかけてきてくれて(笑)
ゴンス:子供には優しかったんだな、アニキ(笑) 怖がってる子供はいなかったもんな。でも俺はそういうほのぼのエピソードを最近聞いたので、上京まで熊さんコントロールの支配下にあった。
オリエンタル、ちょっと怖いよみたいなね。
寛斎:そーなんですね。それが、とにかく安心してゲームに集中できるロケーションで、確か10円、20円、30円、50円、100円という1プレイ料金設定だったんですが、
おこずかいが少ないお友達のために、無料ゲームも設置してありましたよ。ハッスル/Hustle(グレムリン)とボーリングのゲーム。
1977年頃(スペースインベーダー未掲載の点から推測)のタイトロニクスカタログに、タイトーハッスルが載ってました。設置してあったのは、多分こちらでしょうね。
■画像 タイトー ハッスル アップライト筐体画像
どちらもアップライト筐体なので、小学生以下のお友達だと、モニターが見えなかったかもしれません。
ボーリングのゲームはセガのスーパーボウルに似てたんですよ。ただ、レーン上のピンを一掃するバーのところに「ORIENTAL」って書いてあったんです。
ゴンス:オリエンタルのオリジナルゲームだったのかね?
寛斎:それはオリエンタルの誰にも確認できなかったから、わかりませんでした。
ゴンス:また言うけど、タイトーがスペースインベーダーのコピーを問題として訴えるまでは、類似ゲームの世界は「フリーダム」だった(笑) だから「オリエンタルボウル」(勝手に命名(爆))もセガ・スーパーボウルが元ネタだったかもしれないな。
寛斎:とにかく記憶だけの話で、画面写真なんか撮ってないですから、「オリエンタルボウル」がどうだったかはなんとも言えないんですけどね(爆)
■ 画像 セガ スーパーボウル カタログ(裏面は白紙)
寛斎:他にもセガの古いカタログで、クレーンゲームみたいなヤツが載っていて「オリエンタル・スーパークレーン」とか書いてあるものがあるんです。当時、いろいろな機器を製造販売までしてたんですかね?
ゴンス:高岡のオリエンタルなのか、他府県にもオリエンタルって会社があったのか?! オリエント海渡しかり、当時オリエンタル、オリエントって会社名が流行ってた様な気がするね。
■ 画像 セガ Amusement Machines カタログ クレーンゲーム
1978年9月~1978年12月
■ 画像 セガ Amusement Machines カタログ 表紙
1978年9月~1978年12月
寛斎:このカタログの発行時期を調べるために、掲載されてるピンボール機種名「セガ ピンボール モンテローザ」で検索したら、発売一覧年表がHitしました。
そのリストを作るために、8時間の対談をした と。その中には、ツェナの川野社長の名前もありましたよ。
それがTPOという団体により記されたものとわかり、検索してみると、「東京・ピンボール・オーガニゼーション」という団体が活動されていることがわかりました。
HPでは2002年に活動開始20周年の記載がありますが、その後メンテがされていないようです。
恐らくTampaよりも有名な団体だと思うのですが、1982年当時はピンボールはやってなかったし、恥ずかしながらTPOの存在は、この時初めて知りました。
ゴンス:俺はファミ通時代に副代表の堀口さんと、DECOピン(DECOのピンボールの愛称)の取材で会ったことがある。神技だったね。
寛斎:DECOピン、懐かしいですね。大学生のときに「金沢の有名人 月光」がハマっているというので、月光を真似して少しやってました。ただ、やはり私はヘタクソで…
確か「リーサルウェポン3」だったはず。あの印象的なテーマ曲が流れてくるんですよね、筐体から。
ゴンス:やったやった(笑) でもやはり神技は真似できなかったな。TILTにならない揺さぶりで、ボールをコントロールしたり…
寛斎:カッコいいんですよ、巧い人のプレイは。華麗ですよね。結局そんなプレイは無理だ、と早々に諦めてマイカーで実車アウトランしてました。1987年当時は峠がブームで(笑)
ゴンス:俺のホンダ ビートで大垂水峠も行ったよな(笑) 11月なのに、夜の大垂水をオープンで走って(笑)
寛斎:2人とも風邪引きましたね(爆) このカタログ、とりあえず全ページ載せときます。
■ 画像 セガ Amusement Machines カタログ ピンボール、エレメカほか
1978年9月~1978年12月
ゴンス:グランプリ・フォーは高岡駅ビルの日高(通称:ステーション)にあったな、グランドダービーと一緒に(笑)
寛斎:グランドダービーは最大1コインが110倍になるオッズがあって、当時の噂で、毎日13時だったか14時だったかに、110倍が出るレースが出現するなんて話があり…
電源入れてから、決まったパターンでレース結果が出てたんですかねぇ…
その噂は検証する機会がなく、ただの噂で終わってますが、ホントなら大量のメダルをゲットできたんですけどね(笑)
グランプリ・フォーは、ナメゴンがビタミンAM8号のゲームセンターまっぷで、高岡ステーションデパートにあった日高商会ドリームタウン…
ゴンス:あれ?! オリエンタルのゲームコーナーと同じ名前だな。当時、そんなこと気にもして無かったけど。
寛斎:高岡ステーションデパートのドリームタウンは、1973年の住宅地図ですでに存在しているので、中川のオリエンタルで初めて
ドリームタウンの名前を使ったのだとしたら1980年からでしょうね。いつも「オリエンタル」「ステーション」と呼んでましたから、
この事実に今気付いて、少し驚いています。
ゴンス:新事実発覚!少なくとも俺たちの間では(笑)
寛斎:ですね。で、その紹介記事で「3、4年前流行したオーロラの”AFX”をSEGAがゲーム化した。グランプリ・フォー。やりたいと思っても、今はもう動かず…」と書いていて、
これは私と原始人が出会ったおもちゃ箱ぞうさんにあったトミー/オーロラのAFXが入ってるんですよ。
今回ネットで「sega grand prix four」で検索したら、日本語のサイトは1つしかHitしませんでした。
■ 画像 VitaminAM 8号 ゲームセンターまっぷのページ
ゴンス:あーた以外に記事にしてる方がいらした、と!
寛斎:メダルゲーム等の情報をブログにアップされている方が、カタログ画像を載せて、解説されてます。その中で、このゲームの開発の方からの証言として、
「お蔵入りになった」と聞いた、未発売のゲームだと書かれてました。
そんな訳はない、1983年のドリームタウンに確かに設置されてたんですから。ネットでは外国の子供が遊ぶ画像もあり、まずは海外発売したものを国内展開したのかもしれませんね。
開発担当者が「お蔵入り」と言っていたものが、どういった経緯で日高にあったのか… 高岡駅改装以前にステーションデパートから日高商会はなくなってしまってましたから、
こちらの証言も取れそうにないですね。
■ 画像 セガ グランプリ・フォー カタログ
ゴンス:「シランケン」といい、高岡は謎ゲーが多いな、今更気付いた感じだけど(笑)
寛斎:グランプリ・フォーについては、AFXにハマってた私が少し補足します。アメリカのオーロラという会社のスロットレーシングを1980~82年頃、
トミーが日本での販売権を得たのか、トミー/オーロラAFXとして発売しました。オーロラでは、車の仕様を改良したものを追加発売していきましたが、
日本ではベーシックなものを「マグナカー」オーロラで「G-PLUS」と言っていたものを「スーパーマグナカー」として発売。
その他「スペシャル・マグナカー」という第3のシャーシ、さらに当時の「チューニングマニュアル」1ページ目のカタログに、
「ハイスーパーマグナカー」という第4のシャーシも載ってますが、それはおそらく、F1ブームのときに日本でも発売された、マグネットが追加された新シャーシだろうと推測してます。
■ 画像 AFX「チューニングマニュアル」1ページ目
ゴンス:当時あーたとAFXの話なんかしなかったから、今聞いても全然ピンとこない(爆)
寛斎:マグナカーの一覧が出てきたので、グランプリ・フォーに使われてた車種をAFXのカタログから紹介します。
■ 画像 グランプリ・フォー カタログ拡大
寛斎:左から、「ダッヂチャージャーストッカー」「コルベット」「マーキュリーストッカー」で、これだけは買ったマグナカー封入のカタログから、
「シボレーストッカー」。真ん中の赤い「救援車」は私の知る限りAFXのカタログからは見つけられませんでした。
当時操作したような気もするのですが、車体後方に付け根がある黄色いバーが、ボタンを押すと救援車前方から扇状に後方に向けて開いてたはずです。
ただ、走行不能になった車を、救援車でどうやって救ってたのか、記憶にないんですよね。
■ 画像 AFX マグナカーカタログ 拡大
ゴンス:そんなところまで、全く見てなかったから、そーなんだ としか相槌を打てない(爆)
寛斎:まぁAFXにもハマってたんですよ。ナメゴンもAFXをやってたはずで、当時戸出のショッピングセンター ハニーのおもちゃ屋に、売れ残ったAFXのクルマがあるとの情報がどこかからもたらされて、ナメゴンと買いに行きましたもん(笑)
ゴンス:戸出、読めないよ他市町村の人には。「といで」と言えば「春日自販機」(通称:春日)だけど(笑)
寛斎:それは発起人3人の「聖地」なんでしょ?(笑) 多分私は当時「春日」は行ってないですね。社会人になってからクルマで通ったときにたまたま見つけて、「ここがあの春日か!」と。フツーの住宅の居間の手前が「タタキ」(コンクリート床)になってて、そこに自販機とかゲームとか置いてませんでしたか?
ゴンス:そうそう。アットホームな駄菓子屋のような雰囲気が「春日」の特徴(笑)
家庭的なのに、メダルゲームが充実してて、わりとでかい競馬メダルゲームあったなあ。当時ならここもグランドダービーか?!(笑)
ばあさんがカウンター越しにカップ麺売ってましたなぁ。SNKのLASSOとか、渋いチョイスのゲームを置いてたような…
寛斎:今はペット葬祭場になってたと思います。
ゴンス:LASSOだけに羊を供養(爆) 「春日」、無くなったのか… 残念。
寛斎:さて、ナメゴンとは何回か、戸出のハニーへAFX買い付け行脚しました。ゲームコーナーみたいなのもあったような… ジュークボックスがあって、桑名正博のセクシャルバイオレットナンバー1がガンガンにかかっていて、傍らにそれに合わせて熱唱している小学生がいて爆笑しました。
ゴンス:戸出、スゲーな(爆笑)
寛斎:えぇ~、今回は「春日」も「ハニー」も桑名正博さんも特に調べてません(爆)
ゴンス:そのうち「俺と春日自販機」もやってよ(笑)
寛斎:いやいや、「春日」は全く行ってなかったので、書きようがないですよ(笑)
ゴンス:ぢゃあ俺が書くか(笑)
寛斎:桑名さんは、「セクシャル…」の後の「ザ・スーパースター」という歌が好きで、カラオケで今でも歌いますね(笑)
ゴンス:カラオケなら「ドッグ」でしょ。あとはタイトー三島時代にVHDカラオケ販促のためにマスターした五木ひろし!(笑) 十八番は「待っている女」です。
寛斎:「へ、へいへい♪」って女性コーラスで始まるアレですね(笑) いやぁ、大分脱線しましたね。
ゴンス:脱線しかしてないね(笑)
寛斎:オリエンタルに話を戻しますが、私はココで初めて、ルート5が6千万点出したという任天堂シェリフのタイトー版、「ウエスタンガン2」をやりましたよ。
そのテーブル筐体には、特徴である8チャンネルスイッチがついていないので、プレイヤーが動く向きにしか発砲出来ないという、最大の特徴を殺したシロモノ。
タイトー版は全てそうなのか、オリエンタルで汎用テーブルに入れたからそうなったのか…
これも録音したんですが、まだまだテープが見つからない。オープニング曲、シェリフ死亡曲等、オリジナルシェリフと違う曲だったと記憶しています。
ゴンス:「ウエスタンガン」は横視点の対戦ガンマンゲームで、インベーダー以前のゲーセンをにぎわせた機種だな。「2」は知らなかったな。
■ ウエスタンガン カタログ
寛斎:色も、シェリフのような鮮やかなものではなく、白黒でしたよ。インベーダー基板のコンバージョンですかね?
そもそもシェリフも、スペースフィーバー基板ベースのような音ですよね。よくよく考えると、インベーダーの発展形のようにも見えますし。
ゴンス:OEM(ってのかな)的に基盤のせかえってのもありだったのかね。そういうの、なんかすげえ強引に載せ替えてたのあったんだよなあ。
自社のゲーセンに人気機種を置きたかったんでしょうな。シェリフ置きたいけど、ロータリースイッチ付きのコンパネ作ると時間とか金とかかかるから、レバーとボタンでまぁいいや、みたいな(爆)
そのあたりは、漆原さんと渋谷洋一にお任せしましょう(爆)
ファミコンのライセンス契約の業界的一歩なのかな?!
寛斎:ここまで脱線しながら書いてきましたが、コラム史上どころか、webTampa史上最長の記事になっちゃったようなので、ここで一旦終了して、記憶の中のゲームセンターまっぷと、
謎ゲーム「シランケン」の話はまた次回にしようかと思うんですが…
ゴンス:そーだね、1記事としては長過ぎだよな。ということで、また来週(笑)
コメント
コメント一覧 (8)
地道な調査乙であります。読んでいてわくわくしっぱなしでした!
私が確認した限りでは1960年代から存在している企業ということです。
オリエンタルさんは高岡でテキ屋的立ち位置でもあったと。
それでも中村製作所も始まりは木馬2台と金魚すくいからですから、同門というか、同じようなスタートですね。
60年代の話でも、やはりそっちの業界の人たちと繋がっていて、営業が強い会社のバックには・・・・・・なんて普通であったようです。
勿論インベーダーブーム以降は言うに及ばずでありますが・・・・・・。(^_^;
ボウリングゲームはオリエンタルサイドで描き代えた可能性もありそうです。
そういう知識をお持ちの社員も居て、シランケンにも関わっていた。という推理。
私が以前行った、海底宝探しの開発会社の社長のインタビューでは、漆原さんは「NAGANO GAMEと出るものは長野ゲームが作った」という風に書いておりましたが、実際は長野ゲームというディストリビューターの社員が書き換えて出荷していたと聞きました。
又、クラッシュローラーの開発者インタビューでは、コロスケローラーはクラール電子の社員が書き換えたものと証言されていました。
プログラムまで行くとより専門的になりますが、当時でも普通にメーカーやコピーヤーがキャラを書き換えることは日常的に行われていたようです。(・_・;
オリエンタルは是非私も行きたいです。
その時までに寛斎さんに渡りを付けておいて頂ければ幸いです。
資料などが残っていれば何とか譲って頂けないか?と交渉したいところであり、証言としても勿論記録したいです。
丹波寛斎
がしました
今の子供たちは大人になっても、自分たちの子供時代の景色を何時でも見れるのかと思うと羨ましいです。
コックピットタイプのスペースクルーザーは私も思い出のゲームでしたが、高校生の時にTVゲームの歴史 タイトー編2を買って入っていたんですよ。
これが動いている映像としては久々の再会で、マップ画面の印象的なBGMに思わず涙チョチョ切れますた。
セガ グランプリ・フォーのエピソードも勉強になります。
ウェスタンガンⅡも大変興味深い。是非テープを発掘して頂きたいですね。
セガの未所持のカタログ画像もあり眼福でした。
最近、79年のナムコの社内報をつらつら見てましたら、富山の営業所としてタイヨーデパートのファミリーランドの掲載がありました。
ネタにご所望なら画像3点送るので言ってくださいっス。
(長文で投稿出来ず2分割しましたw)
丹波寛斎
がしました