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コラム 【緊急企画】住吉橋-横田橋間の「名もなき橋」撤去 【外伝】俺とゲームズ カリフォルニア
★コンテンツ
・昭和22年に設立した興進製紙(わら半紙を作っていたらしい)が一時不振となり、
昭和32年高岡製紙と改称し洋紙を生産
・いつ架けられたか不明だが、千保川をはさみ横田町側と中島町側を結ぶため、
昭和30年代前半の興進製紙時代に既にあったという「通勤用」の「名もなき橋」
・当webでは「ジャンピングスポット」として紹介。勝手に「ジャンプ橋」と命名する。
・2020年3月には撤去作業が実施されており、その工期は5月31日まで
・3月21日時点で、橋の3分の2が撤去済
■ 画像 3分の2が撤去された「名もなき橋」(以下「ジャンプ橋」とします)2020年3月20日 東側から撮影
円柱状の橋脚2本1組が2組あり、H型鋼で骨組みした上に、コンクリートでコの字型に成形して、鉄パイプの手摺付
丹波寛斎(以下 寛斎):さて、発起人の根城であり、Tampa発足のきっかけとなった「ゲームズ カリフォルニア」(以下 フォル)のコラムで登場した、当会内愛称「ジャンプ橋」です。
怪獣:ひでごんす(以下ゴンス):そんなところ、あったな(笑) 程度の記憶しかないですけどね。
寛斎:私は頻繁にそばを通るので、撤去工事に気付きました。調べてみると昭和22年に設立した興進製紙という会社が、
高岡製紙になる(改称か吸収合併かまでは不明)前の昭和30年代始めには既に架けられていた
という記載が「千保川の記憶」という本に書いてありました。ゴンスも私も渡ったことないんですよね、横を通ってジャンプするばかりで。
ゴンス:そうだったよね。まぁ当時日常的には、フォルからテキサスへ移動するときに、千保川の堤防上を通るんで、通過してただけだからなぁ。
寛斎:こんなことになるなら、一度渡ってみればよかったです。ただ、ちょっと怖かったですよ(笑)手摺もついてたんですけどね。
いつからか、通行禁止の看板が建ってましたね。
ゴンス:まぁ、ずっと使われてたし、一応強度とかは考えた架けられてたと思うけどね。(笑)
■ 画像 住宅地図での ジャンプ橋と撤去前のジャンプ橋(再録)
車の通行量が多い橋西側の道路は削られて平坦に、あまり車が通らない橋東側は
当時のまま橋前後の道路の起伏が残されている。橋は通行禁止となっている。
寛斎:当時、フォルそばの千保川堤防上を爆走してフォル契約先の喫茶店等へ入替のゲーム機を配達。
今は道路が水平になってますが、高岡製紙(前回コラムの丸栄プリントという染物業者を訂正)の工場が川岸にあった時代、
徒歩で千保川を渡る細い橋が堤防の上にかかっていて、その橋が道路の水平部から1mぐらい高いところに架かってました。
その橋の高さに道路を合せるため、橋のところだけ道路が山のように盛り上がってました。
ここをゲームのテーブルを積んだライトバンで爆走すると、ジャンピングスポットよろしく、ライトバンが飛ぶという(爆)
宮川大輔風に言うと「ちんさむロード」ってヤツです(笑)
ゴンス:廃墟、遺構探索サイトみたいになってきたな(笑)
寛斎:チカモリさんの影響は受けてますね(笑)
あとは画像紹介のみで、また来週(笑)
■ 画像 2020年3月14日 西側から撮影 工事開始 手摺撤去済 橋も3分の2が撤去済
■ 画像 2020年3月20日撮影 工事詳細
■ 画像 刊広社 住宅地図2003年版の校区内配布版の拡大
「ジャンプ橋」に名前が書いてあった!
上流の住吉橋と下流の「ジャンプ橋」にも読み取れないほど小さな字で橋の名前が書いてある。
拡大してみたら、こちらにも「住吉橋」との記載。誤植か、地図データ作成時にコピペして、
橋の名前を修正しようとして、名前が無いので、修正し漏らしたみたいですね。
ということでやはり、「名もなき橋」です。
■ 画像 2020年3月28日の状態 東側橋脚が川の中から撤去されました
■ 画像 2020年4月10日の状態 西側橋脚のみを残す状態に
■ 画像 2020年4月19日の状態 橋の左右道路との取付部に遺構を残すのみで、
川からは全てが撤去された
■ 画像 2020年4月30日 住吉橋から横田橋を望む
「名もなき橋」の痕跡は両岸の取り付け部を残すのみ
コメント
コメント一覧 (4)
昔、多摩川の京王線が走る鉄橋の下に渡し場があって、渡し賃は二十円で、お爺さんがやっていたけど年老いて廃業してしまった。
普段は渡しを利用する人は一日に三十人ほどですが、京王閣競輪で競輪がある日は一日に二百人も渡る筈なので、商売になるんじゃないか?と、うだつの上がらない男、作者の内面をモデルとした助川助三が思慮惨憺苦心するという話です。
この渡しは他にも『日の戯れ』に登場したり、寡黙で無口な作者の証言にも登場してくる思い出の場所なのですが、「ジャンプ橋」(住吉橋)は興進製紙が社員の出退社の往来に行き来しやすいように建てたものであったのでしょうね。
ちょっと基礎を見ると不安な感じですが、やがて使われなくなったのも風雨と台風による川の増水で耐久力を削られ、危険となったのかな、と。(・_・;
昭和30年頃は条例や規制みたいなものが希薄で、私企業が勝手に作ったものだったのでははないでしょうか。
そういえば、田尻さんのコラムに何度か登場する町田の住宅街にあったプレハブゲーセン(ゲームセンターBOX30)は、私も主に小中学生の時にお世話になりましたが、今から10年ぐらい前(その頃はまだ細々と営業していた)に訪れた時に親父さんに「こんな住宅街の中にゲーセムセンターがあって大丈夫なんですか?」と聞くと、条例や規制が出来る前に作ったからそれは問題ない、でも一度閉店にしてしまうと既得権が無くなって二度と再開できなくなる。と言っておられました。
小学生時代は店内にディスクライターが置いてあって、200円で書き換え出来たので助かりました。と伝えると「あれは違法だった」と笑っていました。
今は茨城に通いの取材が始まっていて頑張っていますよ。
(今日も行ってきました)
丹波寛斎
がしました