C003-EX2
コラム
【季節ネタ緊急企画】 俺と豪雪と自転車通学
【外伝】俺とゲームズ カリフォルニア
★コンテンツ
・雪が残るゲームズカリフォルニア 跡地
・2021年1月8日頃の豪雪
・冬 富山は除湿機、関東は加湿機
・アイスバーンをチャリンコ通学 当時のTampaメンバー
・当時のヘッドフォンがモチーフ!? 耳当て「イヤーマッフル」
・到着時間が読めない!? バス通学しない訳
・40年間で価格変動が少ない電車運賃
・テールが流れる!カウンターをあてろ!
・タツミ TX-1でカウンターステアを体得(笑)
・実車でスピン回避。TX-1 V8で体得したカウンター
■画像 雪が残るゲームズカリフォルニア跡地。現在は一番奥と2番目の店舗にヤクルト販売が入っている。
当時は2番目の店舗がカリフォルニア、その2階がオリエント海渡だった。
丹波寛斎(以下 寛斎):2018年の福井を主とする北陸豪雪。2021年もそれに近い豪雪により高速道路や一般道での立ち往生が福井、富山で発生しました。
怪獣:ひでごんす(以下ゴンス):関東での生活が長くて、もう雪害がピンとこなくなってます。関東の冬は基本、どピーカンですからね。いや、でもほんとにすごい雪でしたね。お見舞い申し上げます。
寛斎:まぁTampa運営時に比べると、降雪量は減りましたね。トータルでの積雪量は当時と大差無い今回の豪雪でしたが、その積雪量に至る時間が短かったですね。
ゴンス:クルマがあんなに立ち往生するようなドカ雪は経験したことないから、えらいこったなと思いましたよ。
富山の冬は曇り空が多く、晴れた日はないから除湿機が必要。冬にはデカい除湿機を押し入れに向けて放射して、ふとんがカビないようにしてた。
関東では加湿機が必要って、加湿機って何? 冬に上京したときには思ったものさ。乾燥注意報って言葉は上京にして初めて知ったかもしれん。
寛斎:私は小学3年まで北関東、卒業まで静岡でしたから、異常乾燥注意報はよく聞いてましたよ。中学生で高岡。大量の雪を初めて見るからうれしくて(爆)
子供だし、うれしいし、除雪作業も苦にならず(笑)
ゴンス:当時は現在ほど融雪装置が整備されていなかったからなぁ…
寛斎:昭和56年の「56豪雪」のときなんか、朝起きて軽く除雪。登校して学校で除雪。ホームルームの時間が校内除雪。帰ってきてとりあえず除雪。
一休みして除雪。晩御飯食べて除雪 みたいに、ひたすら除雪してたよーな記憶が(爆)
ゴンス:融雪装置のない幹線道路はアイスバーンになってる道ばかりだった。
寛斎:そのアイスバーンを、港が見える丘高校まで9kmの道のりを自転車で通ってましたね。アポロキャップをかぶって、ヘッドホンみたいなイヤーマッフル(防寒用耳当て)をつけ、
その上からウインドブレーカーのフードをかぶってました。
ゴンス:耳当ては売り出された直後かもしれん。知らんかっただけかも。
寛斎:確か紺色のボディで「POPEYE」のロゴが印刷されてました。「POPEYE」がアニメなのか、平凡出版→マガジンハウスの男性ファッション誌コラボなのかは当時はわかんなかったです。
ネット検索すると、中古販売してる方がいるようで、私が使ってたのと色違いの赤色品の画像がHit!
スゲー! POPEYEロゴ下の刻印を見ると、男性ファッション誌ではなく、アニメのポパイのキャラクターグッズのようです。
これの紺色をどこで入手したのか、そこまでの記憶はありません。ただ、当時ふぁんろーど誌で活躍していた一本木蛮さんがイヤーマッフルを着けてる写真が同誌に載ってて、それをマネした ように記憶してます。
■画像 POPEYEイヤーマッフル(ネットからのいただきもの画像) マッフルはマフラーから来た言葉のようです。
現在では、イヤーウォーマーと呼ぶようです。これの紺色ボディのものを愛用していました。「モコモコ」は同じグレー。
ヘッドフォンと似ているでしょ。
ゴンス:ふぁんろーども一本木蛮さんも俺は知らんのだけど、当時は未装着で…
いろんなところが真っ赤に… (;´д` )
寛斎:自転車のハンドルにはおばさん臭いけどハンドルカバーを装着。足元はスノトレで(笑)
■画像 ハンドルカバー(ネットからのいただきもの画像)当時のモノは、白地の地味なヤツ。冬季限定で装着。
ゴンス:「スノトレ」じゃみんな何かわかんないよ(笑)
寛斎:高岡では今でも「スノトレ」で通用するよーです。(笑)
ググってみると、アシックスの登録商標で、スノートレッキングシューズ(snow trekking shoes)の略からきた名称だと。
冬用の運動靴の一種で、雪上でも滑りにくく、ゴム長靴より足が冷えにくい と記載されてます。
■画像 スノトレ(ネットからのいただきもの画像)当時モノと現行品、ほぼ一緒です。白地にブルーのラインのを履いてました。
ゴンス:ゴム長靴は「農業用スパイク」(スパイクは裏面にピンが立っている野球用の靴)とか呼んでたな(笑)
俺は足だけ重装備で、手やら耳やら、あちこち真っ赤にして通ってたかもね。
寛斎:完全防備でアイスバーンを自転車通学。クルマのドライバーからしたら迷惑でしかない(爆) かなり早い時間に出発してたので、通学路のクルマも少なかったように記憶してます。
ゴンス:俺もそうだけど、どんくらい早目に出てたかなぁ?
寛斎:クルマがほとんど走っていなかった記憶なので、6:30~7:00出発とかだったかなぁ… 朝ゲームしないときの通常出発は7:45ぐらいだったか…
ゴンス:オリエンタル興業の横を鼻水出しながら通ってたよ。俺もバスには乗らなかったね。時間が読めないんだよ、渋滞するから。
寛斎:自転車はその辺りが強みですね。雪上通学のいつもの時間でついちゃうから、所用時間の逆算で出発可能。
ゴンス:にしても、やっぱり危ないよな(笑)
寛斎:なので学校から雪が深くなる成人の日(当時は1月15日にFixだった)から1ヶ月は汽車(JR氷見線はいまだ電化されておらず、当時も今もディーゼル列車。なので「電車」ではなく「汽車」と呼ぶ)で
通学してくださいと言われました。
ゴンス:学校からそんな指導があったの(笑)
寛斎:通学時のリスク管理ですか、今で言うところの(笑)
ゴンス:へぇ~。俺はバスで行くと言って親からバス代をもらっておいて の、自転車。バス代はゲーム機のコイン投入口へ(爆)
寛斎:あぁ(笑) さすがに「命に関わる」と言われてしまってたので、私は1ヶ月定期を買って、渋々汽車通学(笑)
ゴンス:あーた以外に積雪時も自転車で来てた生徒はいたの?
寛斎:学校の自転車置き場に5台ぐらい停まってたかなぁ…
ゴンス:あーただけじゃなかったのね(爆)
寛斎:帰りにゲーセンにも寄ってたはずです。高校の手前の小学校付近を雪中自転車行軍してたら、通学してる小学生から「根性~」とか言われました(爆)
融雪装置が無くて積もってる道を走ってましたからね(笑)
ゴンス:今じゃ考えられないな。
寛斎:今どきの子供は親がクルマで学校付近まで送ってますからね。当時親に送ってもらうなんて、考えたことも無かった。子供に「学校まで自転車で行けよ」と言ったら、
雪の降ってないときですら「アタオカ(頭がおかしいの現代の略語)」と言われちゃいましたよ(笑)
ゴンス:最近は親が送るのか。うちは弟(6つ年下のアラフィフ)も自転車で行ってたから、まあ時代ですな。
まあ、最近では関東でもゲリラ豪雨って、梅雨時にはこれまで見たことないような雨が降ったりするから、北陸はさながらゲリラ降雪ってとこなんだろうな。
俺からみたら、冬の特別警報って出してもいいんじゃないかとおもったよ。
寛斎:大雪警報とか、着雪注意報とか、いろいろ出てましたよ。でも命に関わるような災害特別警報は出なかったですね。川が氾濫するわけじゃないからですかねぇ…
ゴンス:そー言うことか… 降りまくってる間は低温だから雪崩にもなんない。だから発令されなかった、と。
寛斎:じゃないかと推察してます。
ゴンス:まぁ当時はとにかく自転車。金沢にも自転車で行ってたもんなぁ…
寛斎:それも「アタオカ」だと(爆)
ゴンス:時代によってそのモノサシは変わるだろーね。交通費は物価の上がり方の勾配が少ないから。東急なんかいまだに初乗り126円だよ。
俺が関東に出てきてから30年で16円しか上がってない。高岡-金沢も840円。200円くらいしか上がってないのか。
となると、「アタオカ」と言われるのも頷けるな。
寛斎:当時、高岡-金沢の国鉄運賃が片道750円ぐらいだったと記憶してます。往復1500円で100円ゲーム15回分。
当時のTampaメンバーにしては結構な金額になるわけです(笑)
ビタミンAM誌上で「100円は大金である」ってコラムを当時書いてたゴンスからしても、相当な大金(笑)
ゴンス:書いたね、そのコラム(笑) そのコラムが出てきたときに深堀りしよう(爆)
原始人は小遣い潤沢だったみたいで、最初の金沢チャリンコ行脚こそブリヂストン・ロードマンで颯爽とついてきてたけど、以降は国鉄電車で金沢入りで、自転車の俺達と現地集合してたような記憶が…
寛斎:まぁ、私達が「アタオカ」だったんですよ(爆) 金沢自転車行脚話の詳細は、ビタミンAMでその回が来たらまた書きましょう(笑)
ゴンス:ハイハイハイ。雪道をチャリンコで通学、通ゲーセンするのもテクニックが必要でポールポジションが「テールが流れる!カウンターをあてろ!」をPOPにキャッチコピーで掲げる前に、
我々はチャリンコでそれを自然に体得してたという、ね(笑)
ナムコ本社で発起人3人が開発途中のポールポジションを見せてもらって、いたく感動したが、クルマの挙動については3人とももよくわからず、はぁはぁと説明を聞いていたけど、
テールが流れるとカウンターを当てる、雪道でチャリンコ運転すると自然にカラダで実践してた、という。これは後々、ポールポジションやったときもよくわからず、クルマを持ってみて初めてわかったという。
■ 画像 ポールポジション カタログ
寛斎:カウンターをあてる。私はTX-1 V8で体得しましたよ(笑) 渋谷のゲームファンタジアにTX-1 V8をやるためだけに詣でてましたから(爆)
ゴンス:あーた、Tampa散開後にTX-1にハマったらしいじゃない。
■ 画像 タツミ TX-1 カタログ
寛斎:毎日、野村のタイトーまでチャリンコでやりに行って、とりあえず全8コース制覇したのがたぶん1984年の春。
しばらくしてV8が出て、高岡のステーションデパート・日高商会(愛称:ション)に26インチ筐体のが入ったので、また通いつめて…
ゴンス:大学生になり上京後の1986年になっても、ファンタジア(こちらはTX-1からのコンバージョンキットでモニターは26インチじゃなかったと記憶)でひたすらやった と(笑)
寛斎:ステーションではV8の全8コースを極められなかったんです。V8は最後のグランプリステージで「南アフリカ」と「(西)ドイツ」の2つのサーキットがデカくて、
これまでの同一コース2周ゴールから、GPステージファーストエクステンドでコース前半を、セカンドエクステンドでコース後半を走るため、
なかなかロングコースを覚えられない。当時ゲーム誌も買ってなかったし、mapは脳内記憶のみだったから、この2コースだけ制覇できなかったんです。
ゴンス:ゲーム誌でもTX-1 V8のコース紹介なんて、マニアック過ぎてどこもやってなかっただろ、多分(爆)
で、ポールポジションじゃなく、TX-1で実車カウンターも体得したというのは?
寛斎:ポールポジションやモナコGP、タイトースピードレースでは、他車に当たると即爆発でした。TX-1はユニバーサルのゲッタウェイほど頑丈ではありませんが、
他車との当り方によってはスピンするんです。そこですかさずカウンターを当てると、爆発せずに少し減速しただけで復活できたんです。
ゴンス:そーだったか… もうあまり覚えてない。
寛斎:更にV8では「ジャンプ機能」が追加! 実質、スタート直後の前走車をジャンプして追い越す以外に自分は活用できませんでしたが、前走車の真後ろ、
両車のセンター同士が合ってる状態で突っ込んでいくと、ジャンプできたんです。
ゴンス:そー言えば、デモで飛んでたな。その程度にしか記憶してない(笑)
寛斎:で、他車に当たったときに当たり具合により、車が宙を舞うようになったんです。TX-1時代の単純スピンになる確率の方が低く、他車に当たると基本中を舞ってました。
これはカタログにその瞬間の画像が使われてるんで、「あぁ」とピンと来たマニアの方もいらっしゃるかと…
ゴンス:うーん、V8のカタログが記憶に無い(爆)
■ 画像 タツミ TX-1 V8 カタログ
寛斎:やっぱりですか(笑) で、宙を舞った瞬間に回転している方向と逆、カウンターを当てるとマイカーは少し減速しただけで復活できたんです。
ゴンス:そのカウンターをあてまくっていたら…
寛斎:宙を舞ったら、即、カウンターを当てるよう、体が覚えました。
ゴンス:それを実車にも適用できたとでも?(笑)
寛斎:いや、まさにそれなんです。社会人になって実車運転。アイスバーンでちょっと加速したら テールが流れる!
ゴンス:カウンターをあてろ!(笑)
■ 画像 ポールポジション カタログ テールが流れる! カウンターをあてろ!
寛斎:なんとか立ち直ったのが3回ありました。即カウンター、体が覚えてるんで(爆)
1回は並走する路線バスとの接触を回避、あと2回は農道(笑)から田んぼにダイブするのを防げました。
ゴンス:実生活にゲームで体得したことを活かせた希少な例かな(笑)
寛斎:ですね(笑) 結局ゲッタウェイは4回ぐらい当たると本格的に爆発でしたが、TX-1 V8はカウンターを当てれば何度も復活!
最強のF1だっかもしんないですね(爆)
ゴンス:あはははは… あーた、TX-1好きだよねぇ(笑) また長くなったな(笑) 最後も雪の話で締めくくれたところで、また来週(笑)
寛斎:さて、次はベストヒット オブ TVゲーム、N0.2のパックマンの紹介です。
コメント
コメント一覧 (9)
寛斎さんの、中学で富山に引越し大量の雪を見るのが嬉しかった!というのは子供らしい視点で可愛らしいですね。
ちょいと話しがズレますけど、『あんたっちゃぶる』の「浅草ゲーム博物館」回でゴンスさんが銭湯代を親から貰って、ゲーセンで使って、近所の公園の水道で頭を濡らしてたとか懐かしいです。w
ポールポジションとTX-1(V8)の話し良きでした。^^
https://www.youtube.com/watch?v=1c_0-fUc4yM
ゲッタウェイといえばまだ不完全ですけど動くようになって、界隈でちょっと話題になっておりましたね。(・_・;
丹波寛斎
がしました
当時の自分に声を大にして言いたい。“何故、Tatsumiへ取材に行かないんだ!!”と。(LDゲーム全盛期にはあのFUNAI開発部にも取材に行ったというのに・・・・・・)
そういえば「日本に2台しか無い」との触れ込みでCARROT道頓堀店の地下1階に一週間限定でひっそりテスト設置されていたポールポジション(エディットVer.)なんてレアすぎるブツがあり、お金を入れてから筐体の近くに設置されているタブレットのような機械にペンで始点と終点を合わせてコースを描くと、リアルタイムにそのオリジナルコースで走ることができるシロモノがありました。
丹波寛斎
がしました
Tatsumiは当時住んでいた自宅からはおそらく軽く一時間半程度はかかったかと。ちなみに数ある在阪メーカーでいちばんよくお世話になったのがI社。あれこれと何度も取材に応じてもらい、今で言うところの神対応でした。
>48秒残すと3回爆発する、と。見た事ありますか?
ないなぁ。むしろ初耳。
丹波寛斎
がしました
コース入力型ポールポジションは当方の『ギャラクシアン創世記』の152ページに掲載していますので是非チェックを!
イベントの貸し出しが主だったようですが、キャロット道頓堀店に設置されていたのは、自分も大阪のMr.ドットマンイベントを主宰した博多さんから聞いていました。(・_・;
運営費はレンタル料が諸経費を除き1日20万円、1週間だと80万円であったようですね。
(直営店の設置はそういうのはなくプロモーションだったのではと)
丹波寛斎
がしました
なかなかこの話題に反応する人がいなさすぎるのです。ロジテックのアクションシートだったのね。なるほど。
最近は某S社のアーカイブ系の案件をいくつかお引き受けしてこなしてますが、おぼろげな大昔の記憶を地味に引っ張り出すことの難しさ。やはり文章にして可視化しておかなければならない必要性を強く感じる今日この頃。
丹波寛斎
がしました